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誕生から現在まで ブランドストーリー

1926年〜1930年

創業

岩田四兄弟(左から春吉、助蔵、初太郎、福太郎)
1926(大正15)年5月1日、当社は渋谷区豊沢町の工場の一隅を借り、中古旋盤2台を据え付けただけの、小さな町工場として出発した。創業者は岩田初太郎と岩田助蔵の兄弟である。兄の初太郎は1901(明治34)年8月生まれ、終生補佐役として兄を支え続けた助蔵は1905(明治38)年5月に生まれた。二人が幼少期を過ごした頃の岩田家は、その日の暮らしにも困るほど、ひどく貧しい家庭であった。自己中心的で気位の高い職人気質の父、小三郎は、博打や酒に給料をつぎ込み、家庭を顧みることがなく、母うめのの和裁の内職と親戚からの借金で、何とか生計を保っていた。二人は程なく相次いで尋常小学校に入学したが、鉛筆やノートを買う金はもちろん、月10銭の月謝さえ、満足に払えない。二人の兄弟は叔父の一人から内職仕事をもらい、茶こし器の部品加工をして家計を助ける毎日であった。初太郎は苦しい家計を支えるべく、尋常小学校を4年で中退し、町工場に就職した。最初は電気会社の見習い工となり、ソケット加工に従事していたが、単純作業と将来展望のなさに失望し2年で辞め、鉄管継手や紡績機械、印刷機等を製造する三光製作所の旋盤見習い工となった。日給は17銭であった。21歳で年季が明けた。年季明けで一人前の職人になると、自分の腕を磨くために転職するのが当時の習いだったが、会社は初太郎の腕と人柄を見込んで引き留めた。初太郎は月60円を支給され、従業員の指導監督、対外交渉を任された。弟の助蔵は、兄の収入もあって無事に尋常小学校を卒業した。助蔵は成績優秀で教師も進学を薦めたが、やはり家計を支えるため、叔父の工場に就職した。ここを1 年で辞め、兄を慕って三光製作所に入社した。 当時、兄弟二人の給料を合わせれば、何とか家計のやりくりのつくまでにはなっていた。しかし兄弟は、「いつまでも人に使われるような状況に甘んじていてはいけない。近い将来、独立しよう」と誓いあった。二人は、給与のほかに茶こし器の手内職をして少しずつ資金をため、その金で工具類を買い揃えた。初太郎はその後三光製作所を出、木工機械の製作工場や鉄工所等と仕事を変え、“ 運は練って待て” と、腕を磨いて独立の時に備えた。1926年5月、初太郎は創業資金500円のうち450円を、国鉄大宮工場長をしていた叔父から借りようとしたが、「今は不況で時期が悪い、他日を期せ」といさめられた。しかし、独立したいという発一念は止み難く、“ 時は今だ”と豆腐屋をしていた叔父から資金を借り、渋谷区豊沢町で「岩田製作所」を旗揚げした。

スプレーガンとの出合い

1号型スプレーガン (国産第1 号スプレーガン)
岩田製作所は、タイプライターやベンチボール、ラジオ部品製作の下請けを始めたが、経営は思うようにいかなかった。助蔵はこのとき、外車販売とハイヤーの会社で、販売した自動車のアフターサービスや修理なども手がける水嶼商会に勤務しており、彼の給料で何とかもっていた。岩田製作所を設立して2 カ月後、助蔵は水嶼商会を辞め、兄の下に合流した。背水の陣であった。 退職して1 カ月後、その水嶼商会から連絡があった。助蔵が水嶼商会の社長を訪ねると、彼は真鍮製の真新しい機械を取り出していった。「これを作ってくれないか?」それは米ビンクス社製の最新型スプレーガンだった。水嶼社長は車の買い付けで渡米した際、当時最先端のラッカー塗装に注目し、ラッカーやシンナー類とともにビンクスの塗装機器の輸入契約を結んできたのであった。しかし、ピンクス社の製品は非常に高価で、ラッカー塗装を普及させる障害になる。そこでスプレーガンを安く国産化しようと考えたのだった。助蔵は簡単に作れるだろうとたかをくくり、その場で1 個50 円、納品後払いという条件で、l ダースの製作を引き受けた。初太郎と助蔵は、見本のスプレーガンをためつすがめつしながら、3カ月後には完成させ、水嶼商会に納入した。しかし数日後、代金を受け取りにいくと、意外なことに全品不良だとされて突き返されてしまったのである。息切れ、霧ムラ、吸い上げ不良、引き金が重いというのがその理由であった。その後、手直しをして持ち込むが、そのたびごとに突き返された。真空にして塗料を吸い上げるという基本的な原理を知らなかったばかりか、コンプレッサを購入する資金がないため、試験ができないのだから当然であった。水嶼商会のコンプレッサを使わせてもらおうとしたが、水嶼社長は「調べておいてやる」と言うばかりで、一切手を触れさせてもらえなかった。しかし、完成しないことには代金は入らず、材料費も払えない。数十回のやり直しの後、やっと数個のスプレーガンが試験にパスした。受託してから約半年、資金も底を尽いていたが、まさに職人の執念と意地の成果であった。できあがった国産第1 号のスプレーガンは頭部が大きく、握りもごつかったが、平吹き、丸吹きができ、塗料の霧化も十分であった。

販路の開拓と製品開発

当社の経営は水嶼商会の仕事を得、安定してきた。昭和に入るとラッカー塗装の普及に従って注文は増加し、さらに空気圧を安定供給するためのエアトランスホーマ(空気清浄圧力調整器)の注文も入るようになった。岩田製作所は塗装機器の専業メーカとして一本立ちする決断をし、1927(昭和2)年2月に渋谷区豊分町の小さな工場に移転した。しかし、同年暮れには支払いを巡って水嶼商会とトラブルになり、取引を中止することになった。大口顧客との絶縁は収益面では大打撃であったが、その後水嶼商会は不況や番頭の使い込みで倒産した ため、むしろ幸運だったかもしれない。当社は自前で販路を見つけねばならなかった。目を付けたのが塗料問屋や塗料販売店であった。当時、営業を一手に引き受けていた岩田助蔵は、自転車で都内の塗料販売店を1件1件訪問し、スプレーガンの使い方を説明して置いてもらった。販売店で当社製品が売れ始めると、自然、販売店の数も増えていった。また、材料を仕入れた帰り、板橋や埼玉県川口市の塗料店にもお願いし、販売店を増やした。全国規模の営業展開は、もっぱら塗料・塗装関係、自動車関連の新聞や雑誌の広告によった。ラッカー塗装の普及が始まったこともあり、全国から注文が舞い込むようになった。需要の増大にあわせ、当社は新製品の開発に力を入れた。最初に取り組んだのが、普及タイプのスプレーガンの開発であった。初太郎は1年以上スプレーガンと格闘した経験をもとに頭部の簡素化を行い、価格を約半値にすることができた。また、米カーチス社タイプのコンプレッサの国産化、エアトランスホーマの製造など、ラッカー塗装に必要なさまざまな機器類をラインナップに加えていった。当社は、ラッカー塗装の普及拡大の波を見事に捉え、急激に売上を伸ばし、創業時の借金を全額返済、さらに増産体制のための資金を得た。そこで1930年、恵比寿駅前の渋谷区向山町に約120 坪の土地を得、工場と店舗を建設した。そしてこれを機に、社名を「岩田噴ふきつけぬり付塗機械製作所」に改めた。1932年には三菱商事にコンプレッサを含む塗装機器のユニットを12台納入する大口契約を取り付けた。その後も、スプレーガン、コンプレッサともに性能の良さが評判となり、ガソリン計量器メーカや自動車整備機械店など大口顧客は増え、販売店も全国各地に広がっていった。

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