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会社情報 ブランドストーリー

1961年〜1985年

工場の集約と全国販売網の強化

コンプレッサの組立ライン
1965年初頭から、わが国は後に40年不況(証券不況)と呼ばれる不況期に突入した。同業他社でも不況のあおりを受けて倒産したところが多く、当社も経営の引き締めや合理化を推進することになった。最も大きな課題が、綱島第1工場、第2工場の2ヵ所に分散した生産設備の集約・統合であった。第2工場のみに集約すれば管理コストや在庫の削減、環境対策にも期待ができた。集約のための工事は1965年8月から実施され、翌年2月には第1工場の移動を開始、同年11月に完了した。新工場ではスプレーガン、コンプレッサ、塗装設備等、製品別に建屋を独立させ、それぞれ大幅に生産性を改善した。併せて「総合技術センター」を建設し、より高度な研究開発が可能な環境を整えた。販売面では、より積極的な販売活動を行うため、関西と九州地区では梅居産業株式会社との合弁で設立した「岩田塗装機株式会社」(大阪市)と「九州岩田塗装機株式会社」(北九州市)を吸収し、それぞれ大阪支店(1966年10月)、九州営業所(1968年4月)とした。なお、九州営業所は同年8月に福岡市に移転し、福岡営業所と改称した。2拠点の設置は中間マージンの削減だけでなく、拡販、アフターサービスの充実など、大きな効果をもたらした。

中形コンプレッサへの進出

MCB-15
1960年代半ばから、工業化の進展に伴い、コンプレッサの需要動向に変化が現れ始めた。それまで小形コンプレッサが主流だったのが、より容量の大きな中形の需要が伸びてきたのである。当社は1965年頃から中形コンプレッサの開発を開始した。中形機市場は先発大手メーカがひしめく激戦区であったため、海外市場を含む徹底したマーケティングに基づき空冷機に着目して開発戦略を練った。開発に併せ、横浜工場に隣接する土地を購入して中形コンプレッサ専用工場を1968年に完成させた。同工場は1969年秋から本格稼働し、量産を開始した。

海外市場への進出

オランダのハーグに現地法人を設立
当社は1960年代半ばには、世界20カ国に製品を輸出していた。とりわけ台湾ではスプレーガンが、タイでは小形コンプレッサが好評であった。しかし、生産は国内市場の需要に供給するだけで手一杯だったため、海外市場での積極展開は課題として積み残されたままであった。当時、当社にとって最も魅力的だったのがヨーロッパ市場であった。1965年、フィンランド、スウェーデン、デンマーク等にワイダー型スプレーガンを輸出したところ、市場の感触が非常によく、さらにベルギーとオランダにも販売の足がかりを持つことができた。こうした経緯をふまえ、ヨーロッパに海外駐在所を設置して販売網を確立すべきとの結論に達した。1968年10月、オランダのハーグ(Den Haag)に現地法人「ヨーロッパ岩田」を設立、2名の社員を派遣して塗装機器とコンプレッサの販売を開始した。しかし現地販売店10社と代理店契約を結び、実際に販売活動を展開してみると、市場調査ではわからなかった問題点が浮かび上がってきた。日本と同様、塗装業は3K(きつい・汚い・危険)仕事として敬遠され、職人の質が極度に悪く、塗装機器は粗雑な扱いを受けていたのである。更に運悪く中形コンプレッサ開発と時期が重なったため、ヨーロッパ市場のニーズにあった製品開発が頓挫し、販売は行き詰まってしまった。こうして1969年7月、ヨーロッパ岩田はやむなく閉鎖されることになった。しかし、この進出でヨーロッパの市場を深く理解することができた上、代理店の獲得など、その後の海外展開の基礎となる重要な経験を得ることができた。その成果は、ちょうど20年後に見事に花開くことになる。

塗装機器新工場の建設

東北岩田(現:秋田工場)の外観
1969年、横浜工場周辺が市街化調整区域に指定されたことを受け、当社は将来の需要増を見越して、横浜工場以外の地に塗装機器とコンプレッサ専用の工場用地を広く全国に求めるべく、調査を開始した。そこでいくつかの候補地から、廃校予定の秋田県大曲市(現、大仙市)藤木中学校敷地に着目し、塗装機器専門工場としての進出を決定した。1972年10月、新工場は東北岩田塗装機株式会社(後に秋田岩田塗装機株式会社、現コーティング事業部秋田工場)として資本金5,000万円で設立された。同工場はその後も順調に成長を続け、当社のスプレーガン生産の中枢となったばかりでなく海外でのスプレーガン生産の技術的バックボーンとして現在に至っている。

新経営陣で不況を乗り切る

左:岩田助蔵新会長(当時68歳)/ 右:岩田一也新社長(当時41歳)
1973年5月29日、当社は社長交代を含む、経営陣の刷新を行った。1965年以来、初代社長の岩田初太郎に代わり当社の指揮を執っていた岩田助蔵が会長職に退き、専務の岩田一也が新社長に就任した。新社長就任と同時に、当社始まって以来の経営3ヶ年計画が発表された。しかし、新経営陣の船出は決して順調なものではなかった。むしろ存亡の危機といえる強烈な荒波の中での出発となった。1973年10月、日本列島改造論で過熱気味であったわが国経済を第1次オイルショックが直撃した。塗装機器の市場も大幅縮小、急激なインフレが当社を襲った。こうした変化に対応するために大幅な組織改革を行った。第1に研究開発部門と生産部門を主体に塗装機器事業部、圧縮機事業部の事業部制に移行し、製品別に市場に即応できる仕組みとした。第2に、生産技術部門を独立させ、すべての製品に対応できる体制を整えた。1973年頃から市況はさらに悪化し、長期に亘った高度成長期から一気に低成長期へ突入、困難な時代を迎えることになった。当社も低迷し始めた業績にテコ入れすべく、余剰人員による営業応援、人員調整などさまざまな手を打った。まさに、なりふり構わない状況であった。こうした血と汗と涙を流す必死の努力の末、倒産が相次い

福島岩田の稼動

福島岩田(現:福島工場)
全社一丸となって不況への対応を行っていた当社は、一方で将来に備えた増産体制を整えるべく、国内生産3拠点体制の確立を急いだ。特に、横浜工場の大部分を占めていたコンプレッサ本体の加工、組立部門の移転は、将来の増産の鍵と目されていたのである。数箇所の候補地の中で、立地条件である工業用水と電力の確保、労働力の確保、物流の便の良さをクリアしたのは、福島県西白河郡矢吹町だった。1975年9月、資本金8,000万円で福島岩田塗装機株式会社(現、エアエナジー事業部福島工場)が設立された。福島工場は厳しい価格競争を勝ち抜くため、NC 旋盤やマシニングセンターなど、最新の自動化ラインを含む最新鋭の設備を備えた小形コンプレッサ工場であった。1978年の増資(3億円)を受け、1981年4月には第2期工事が始まり、空気タンク、塗装、組立ラインの生産設備が完成し、名実ともに小形コンプレッサ生産一貫工場として10月からフル操業となった。生産能力は3,000台/月で、小形コンプレッサNシリーズ、続いてPシリーズを生産した。

FA(Factory Automation)化への対応

塗装ロボットAR-62(油圧式)
この時代、我が国の産業界で問題とされていたのが、3K業務の敬遠による人材不足であった。塗装作業もその例に漏れず、自動化、FA化が急務となっていた。そこで当社は三菱重工業株式会社と業務提携し、国産初の塗装ロボット「AR-62」を開発。1975年8月に上市し、国内のみならず海外でも高い評価を得た。1980年には世界初のマイクロコンピュータ付きデータプロセッサを搭載した「AR-63」、さらに1982年にはこれも世界初となるマイクロコンピュータ制御による塗装ロボットMRPシリーズを上市した。1985年には世界初の電動式のダイレクトティーチング機MRP-400シリーズを発表した。なお、塗装ロボットの開発は、ベルトコンベアや乾燥設備等との組み合わせにより、お客様の塗装の自動化に対する総合的なソリューションの提供を可能にするものとして高い評価を得ることとなり、その後の当社塗装設備事業の発展拡大の基盤として錬成され、今日に至っている。

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